詳細は https://ja.m.wikipedia.org/wiki/長崎大水害 等を御覧ください。 長崎大水害は、1982年(昭和57年)7月23日から翌24日未明に発生した。 長崎県長崎市を中心とした地域に発生した集中豪雨、とその影響による災害。 災害派遣の要請は一般に都道府県単位で、知事の要請によって行われる。 長崎県は離島が多いため、年間250件程度の頻度で海上自衛隊大村基地に要請される。 大半はヘリコプターによる急患輸送で、天気が良い日に妊婦さんが産気付いた場合も。 災害派遣はこの様に都道府県の知事からの要請に対し、自衛隊が出動するのが前提。 つまり、知事の要請が無ければ自衛隊は勝手に出動出来ない…文民統制の原則による。 急患輸送の要請はするのに、この災害時に自衛隊に対する災害派遣要請が行われず、 出動態勢が整っていたのに、陸自大村駐屯部隊は災害派遣出動ができず、時間を要した。 行政側が混乱状態で、要請まで思いつかなかったのが原因であるが、痛いタイムロス。 そのため、非常手段として(テレビ報道で大災害発生は確実だったため)、第4師団司令部の許可のもと、災害派遣出動訓練として前進し、正式要請受諾後、災害派遣のプレートを付けて行動した。 この際連隊長の特命を受けた幹部3名が、豪雨の中長崎市に向かった。 2人は道路崩壊で前進不能になったが、最後の一人は道路崩壊で前進不能になった後、最寄りの危険のない民家に自衛隊車両を置かせてもらい、徒歩で危険地帯を突破した。
今なら高速道路で30km弱、20分で到着しますが…100km強を徒歩で行軍何て無理です。 24時間マラソンなら行けるかも知れませんが、大雨の中…到着したら作業開始が前提。 雨具を着込み、行軍中の糧食を携帯…到着後の作業を行うスコップや水筒も持参します。 普通なら死んでもおかしくない状況、到着した隊員は貫徹で踏破後作業に突入しました。 当然、交替要員も逆回りで大村湾を一周して合流、もう全員ヘロヘロの状態でしょう。 その状態でスコップ一本を持ち、手作業で土砂の除去、遺体の掘り出しをやってた。 そうこうする内に道路が一部復旧するや到着した報道陣、自衛隊員を見やって放言。
海上自衛隊の大村基地には対潜ヘリが多数有ったが、余りの惨状に下ろせず… 飲料水の空輸を実施する位しか他にやり様が無かったらしいのですが… 今回の洪水等では…人命が救助できて非常に良かった…遺体の掘り出しは大変です。 長崎市内の死者・行方不明者299名のうち、およそ9割にあたる262名が土石流や崖崩れによるものだった。 全て人力で掘り出したんですよね…頭が下がります。